教師である以前に人であること

やっぱり人間は人間性。それは教師にこそもっとも求めれる。
寝ぼけながら無駄にいろいろ考察。

 朝、ごみ分別や寮の掃除をしているおばちゃんたちとばったり会う。笑顔でおはようございます。ご老体の方たちは挨拶すると返ってくるのがうれしい。登山中などすれ違うとき挨拶すると若者は絶対返さない。見ず知らずの他人だと敬遠して「なんだお前」的な気分になるだろうが、やはりどんなコミュニケーションも挨拶で始まる。どうでもいいが、岐阜県では交差点や、横道から本道に入ろうとして入れない車に道を譲ったりしても、相手からの反応が何も無い。福岡なら目視距離ならパッシングとハンドサイン、前に入れたらハザードくらいの挨拶は当たり前である。そんな福岡は交通事故の数はトップクラス。バイト先の目の前で大事故の時はびびった。
 ともかく登校。



 やはり、人には良し悪しがあると思う。例えば勉強するのは上手なのだが、教えるのが下手な人。逆に勉強するのは下手だが、教えるのが上手な人。私の担任がどちらかと言われれば前者だろう。どうにも聞いていて理解できない。というか、教科書を"自分"と言うフィルターを通して呼んでいるだけじゃないかと言いたい。しかし、だからと言って授業を受けたくないとは思わない。やはり人間を見るのはそういう面じゃない。人間とは文字通り「人間性」がもっとも求められる。どこぞの先生は平気で「馬鹿」「アホ」といった相手を侮辱する言葉を平気で言うのだから、とても授業を受けようとは思わない。おかげで「嫌いな先生No.1」の座を不動ものとしている。名言、そして態度は「俺が法律だ」。どこの映画の登場人物だ。
 しかしまあ、担任の授業は言ってはなんだがつまらない。一生懸命聞いても教科書以上の情報があまり入ってこないので、いまいち新鮮味が無いのだ。おかげで眠気を誘う。





 眠気覚ましにいろいろ授業以外のことを考えてみる。夏休みのこと、製作中のホームページのこと、そして教師のあるべき姿。いや、正確には好かれる先生とそうでない先生だ。
 結論は、教師に最も求めらるのは指導力だろう。教師とは授業や講義を行い、学生に知識を与えるのが仕事である。何も「指導力」だけではないだろうと思う人もいるだろうが、指導力の無い先生は医者で言うとヤブ医者である。ともかく、指導力こそが教師に求められる。だが、指導力と言うものはそう安々と手に入るものではない。人に物を教えると言うのは非常に難しいことなのだ。例えば私は航空機の名前すぐに覚えるが、俳優や歌手の名前など(お笑いを除く)はなかなか覚えられない。たぶん普通の人は逆だろうが、そういった風に理解能力は人によって異なる。「1から10」教えたつもりでも、相手には「1から5」、あるいは「位置から語」というまったく違う風に解釈される場合もある。F1と聞いて「フォーミュラー1」と思う人や、「国産支援戦闘機」や「ファンクションキー」と思う人などそれぞれいるだろう。ともかく十人十色、人に何かを教えようとするならば、人の数だけ教えからが必要となる。
 その教え方はどうやって学ぶか。当然まず必要なのが自分の知識。参考書そのままの文章を相手に教えては相手はわからないだろうし、おそらく自分も分かっていない。まず自分自身が理解し、自分の言葉でアレンジして説明できることが必要だろう。そのためには参考書の文章を遥かに上回る情報が頭の中に入っているはずだ。テストで聞かれないような情報もあるだろうが、これが相手に教えるとき重要なキーワードとなることが多い。
 そして何より相手を理解する能力。相手の性格や趣味、勉強能力を読み取り、的確な指導を行うことができるか。おそらく、これが習得する上で一番難しいだろう。普段の人付き合いでは必要最低限の意思疎通で十分だが、物事を教える場合は完全な意思疎通が必要だ。自分の知識を相手に教えると言うことは、知識の共有である。前記のとおり、人と言うのは十人十色、千差万別で物事の捕らえ方は人それぞれである。相手が自分と同じ物事の考え方をしていれば教えるのは簡単だろうが、実際はそうではない。ならどうするか、答えは簡単。相手に合わせればいい。相手の正確を理解し、相手と同じ視点に立って教えるのである。言うのは簡単だが実際はかなり難しい。理解しているつもりである友人間でさえ勉強を教えるのは難しいと言うのに、そんな間柄でもない相手にそうするのは常人技ではない。しかし、完全でなくとも、相手の視点が分かれば少しは指導の方法も変わってくるだろう。某先生は明らかに「自分はこれで完璧に理解できるぞ」という満足げな顔で授業をしているが、実際は一人走りで、たまには振り返ってほしいもの。みんな呆然と立ちすくんでいます。相手と同じ視点に立つ上で簡単な方法は生徒たちと仲良くなること。こうすれば相手の気持ちも分かり、授業に反映しやすくなるだろう。まあ好かれる先生→授業がうまい、という図式は当てはまらないことが多いが、授業がうまい→好かれる先生というのは、それなりに当てはまるのでは。ちなみに私は嫌いな先生の授業はどんなに教え方が良かろうとあまり聞く気も質問する気にもならないが、好きな先生の授業は聞こうとするし、質問もする。どちらにせよ好かれることによるデメリットは無いと思う。
 相手と同じ視点になれたとしても、次にあるのは最強の壁。知識共有する方法は言語があるが、それには知識と言うアナログデータを、言語と言うデジタルデータに変換しなければならない。このときどう変換するかが重要。これは授業よりも人付き合いで発揮される、俗に言う話し上手である。例えば「大きい」という言葉を聞いただけではどのくらい大きいのか分からない。「Su-35よりも一回り大きい」といっても普通の人は分からない。「シロナガスクジラぐらい大きい」と言ってもまだ良く分からない。「25メートルぐらい大きい」と聞いてもまだ微妙である。「中学時代に泳いだ25メートルプールぐらい大きい」と聞けばまだ分かる。私は苦手だが、人に何かを伝える能力も重要です。なんといっても話術のうまい人は話が面白い。これで生徒からのポイントゲットです。
 指導力とはこういったものを全て手に入れたとき手に入るものだと思います。なんだかんだいって私が言いたいのは、生徒や学生が接しやすい教師であることはメリットだけでデメリットは無いということ。古風な先生もいますが、時代は変わっています。教える相手のことを理解し、知識と笑いとトリビアのあふれた授業をすれば、絶対にみんな付いてくると思う。思うだけで実際は分からない。





 とまあ結局何が言いたいのか分からないことを考えならが、結局一瞬眠ってしまう。友人の声が無ければナイトメアに飲み込まれるところだった。実際変なことを考えていたことを考えると、実際飲み込まれていたのかもしれない。人間寝ぼけるとろくなことしません。そんな私は先日、目覚ましを止めるため必死にゴミ箱あさってました。正気に戻ったとき、冷静に「俺はいったい何をしているんだ!?」と思ったり。