フィルムの記憶


OM-1を探して3000里。OM-1はおろか、オリンパスフィルムカメラすら見かけない日々。
フィルムカメラは金がかかる。撮影枚数に限りのあるフィルム、金のかかる現像。
けど、そんな不便なフィルムカメラに興味が湧いているのは、何も遊びだけが目的ではない。
デジカメではできない、フィルムカメラでしかできないことをしたいのだ。
(↓本日超長文です。ちょっとまじめな話題↓)
 HDDにある写真データを見ながら、ふと思うことがある。HDDが壊れたら、このデータはどうなるのだろう?
 そう考えると不安になりいくつもバックアップをとるのだが、結局バックアップしたデータもデータなのだ。いつかは消える。
 そうなる前にお気に入りの写真は現像した方がいいだろう。けど、多くの写真はHDDに眠ったままになることが多い。
 まあ現像するほどでもない写真ばかりなので問題ないが、問題は一生残したい写真だ。デジタルデータは少しでも劣化(データの破損)してしまうと、人間の目では見えないものとなってしまう。とても脆い。

 そもそもOM-1といったフィルムカメラは探していたのはインテリアに他ならない。実用性など全く考えていなかった。でもあるちょっとしたきっかけで、急にフィルムカメラの実用性を感じだした。フィルムという物に、光景を焼き付けるカメラ。撮影後には写真を記録したフィルムが残る。例え色褪せても、残る写真。

 今フィルムカメラを求めているのは、プライベートで使うためだ。写真という趣味を遊ぶのではなく、大切な人たちを撮りたい時のために。実家の押入れの奥にある子供のころのアルバム。それに挟まれた写真のように、いつまでも残る写真を残したい。デジカメでもアルバムは作れる。が、元のデータはいつか消え、そもそもほとんどが現像しない。
 フィルムカメラならフィルムは残り、フィルムさえあればいくらでも焼き増しは出来る。多少ボロボロになっても、だ。

 なんで写真を撮っているのかなんて最近では良くわからないが、そもそも写真とは時間を切り取る機械だと認識している。止まらない時間のなかで、その一瞬を切り取る機械。E-330を買ってから本格的に初めて写真だが、恥ずかしながら家族はほとんど撮ったことが無い。理由はなんか恥ずかしいからだ。
 けど、家族はいつまでも一緒に生きていけるわけではない。年をとり、いつかは旅立ってしまう。もう一度会いたい。そう願っても、もう会えない。薄れていく記憶の中でしか、認識することができなくなる。そうなってから、せめて写真にでも残してあげればよかった、と心から感じる。
 去年他界した祖父。まだ顔色のよかった祖父を写真に撮ったが、それは携帯電話のカメラだった。L版にプリントし、そっと祖父にプレゼントしたそれが、最後の写真になった。一枚10円ほどの、一枚の写真。生きているうえで価値あるのは、カメラではなく写真だった。
 本当に価値ある写真とは、構図やピント、露出も計算しつくされた作品ではなく、何気ない日常の一瞬なのだと思う。今でもデジカメの古い写真を見て、「写真を撮ってて良かった」と思うのは、そういったものだ。


(学生時代の自分と恩師)

 残すべきはカメラではなく写真。そういった考えになって、フィルムカメラの実用性を思い出した。何気ない日常を、フィルムで残したいただそれだけだ。しかしフィルムカメラは使い捨てからそうでないものまで、現在も一応発売されている。それでもあえてOM-1をはじめとする古いカメラにこだわるのは、そこは趣味としか言いようがない。せっかくなら気に入ったもので撮りたいだけだ。


 写真を撮ってから何十年後。その時見て、撮ってて良かったと思えるような写真を残したい。ただ、普通のネガフィルムじゃ色が反転しているので面白くないから、色がそのまま表れるポジフィルムで残してみたい。ただ、現像時に補正のできないポジフィルムは難易度少々高い。それなりの知識と腕がいるだろ。


 そうか、そのために日々デジカメで訓練しているのかもしれない。